ジンジャー・エールの生姜率

勢いで始めてしまったブログ。旅行や小説や音楽を語るともっぱらの噂。

祝祭は遠くに

「彼方の祝祭」という、吹奏楽のための曲がある。

(試聴)

https://www.amazon.co.jp/dp/B003Y1ZEEE/ref=cm_sw_r_cp_awdb_c_j2bLAbK1A7EVE

 

聴いた後しばらく経つと、どんな曲だったかはっきりと思い出せなくなっている。

ただ、凄いものを聴いた感触だけが残る。美しく、冷笑的で、砕けるガラス片のような煌めきで。

その遠鳴りを辿って、時々、無性に聴きたくなる。

 

分かりやすい曲ではない。冒頭こそ哀しげなメロディーが流れるものの、段々旋律の輪郭が不明瞭に、あるいは複数の旋律がぶつかり、気付けば次の場面へと移る。

作曲者の語る通り、どこかシニカルで、何かへの疲弊を歌った音楽。キャッチーさは、微塵もない。

 

かくいう自分も所詮はアマチュア、この曲の音楽的価値を正しくは理解出来ていないだろう。

ではなぜ、惹きつけられてしまうのか。

 

無機質なネット空間、24時間誰かが働き、誰かが発信し続ける世界。その先にある有機質な部分は掴み難くて、なのに延々と続く祝祭のような騒ぎだけが目の前を流れていく。

あるいはハイスピード化する世の中。あるいは電子制御下の戦争。あるいはそんな世界に取り残された、一つの生身の体。

 

そういうことをふと考える瞬間、この曲のタイトルを思い出す。

ああ、今、祝祭は彼方にあるのだ。

 

遠くに神輿が見える。絶対に手の届かない所で、かつがれ、運ばれていく。掛け声が聞こえる、歓声が聞こえる、カメラの音が聞こえる。

 

そういったものに触れてしまったとき、祝祭を皮肉に思い、祝祭を眺める自分を皮肉に思う。溜め息をつくか迷ってしまう。

そんなとき、この曲は、正しく溜め息をつくために、寄り添ってくれるのだ。

 

溜め息をついて、3日後には、またほとんど全て忘れてしまう。だけど、実はそれこそが正しい形なのかもしれない。

3日も経つと、あるときには、祝祭の中に自分も入ってしまうから。またあるときには、祝祭そのものを忘れてしまうから。

 

そして、いずれの場合にしても、だ。

ずっと、遥かな祝祭を見せ続けられることほど、辛いものはないから。