ジンジャー・エールの生姜率

勢いで始めてしまったブログ。旅行や小説や音楽を語るともっぱらの噂。

季節と共に生きる街

食堂のテレビから、和笛の音が聞こえた。

ぼうっと横目で映像を見て、一瞬で切り替わったけれど、どこかの祭礼だろうなと理解した。

 

5月、祭り。

ああ、もしかして葵祭だろうか。

 

……とっくに終わってるじゃねえか……と1分後に気付いたけれど。

 

 

学生時代、京都という街に住んでいました。

日本史が好きな私は、すぐに寺社参りにもはまり、また色んな祭りにも参加して。

中でも、祇園祭のバイトは、一生ものの思い出。

 

京都から離れて、数年。

就職で関東へ来てからは、すっかり京都とは疎遠に。

今だから、思うんです。

京都は、季節の中にある街なんだな、って。

 

 

今回は、せっかくなのでお祭りの話を中心に。

著名なお祭りは日本全国種々多様にあります。青森のねぶた祭り。徳島の阿波おどり。福岡の天神祭

だけど、京都には全国区で有名な祭りが3つもあります。

春の葵祭。夏の祇園祭。秋の時代祭

これほどの知名度の、それも街のかなりの範囲が対象となる祭りが、季節ごとに。かなり特異な例ではないでしょうか。

京都市内で暮らしていたら、交通規制の看板やテレビのニュースを見て「ああ、○祭りの時期か」と必ず意識させられます。

 

それ以外にも。

2月、吉田神社の節分祭。

7月、下鴨神社の御手洗祭。

8月、五山の送り火(祭……?)。

 

街のあちこちで、季節ごとに大きな祭りが行われています。毎年、変わることなく。

 

 

京都は、いつも季節の中にある。

 

初詣の混雑に圧倒され、凍結した道を自転車で行き、梅の香りに誘われ。

鴨川の桜を横目に歩き、葵祭の行列を眺め、路傍のあじさいに心が揺れて。

祭の喧騒に飲みこまれ、川床で風情を感じ、キンモクセイの花が香って。

色づき始めた銀杏を見上げ、紅葉の道を踏みしめ、白い大文字を見つめる。

 

京都では、歴史の中で人が季節とどう共存してきたか、強く意識させられます。

好むと、好まざるとに関わらず。

 

 

それは、この便利な現代社会ではデメリットにもなりえます。

盆地の気候では、夏の暑さも、冬の寒さも、容赦がない。

春や秋には花粉も飛ぶし、街が近いのに虫も割と見る。

自分も、今あの気候の中に戻って、何年も暮らせるかというと、少し自信がありません。

 

 

でも。

 

高層ビルに視界が埋め尽くされること。

工場の大型装置に囲まれること。

モニターの中と対話し続けること。

 

現実の季節の流れと、五感をくすぐる季節の流れ。

それらが解離してしまう方が、不幸せなことなのかもしれない。

嫌が応でも、季節のメカニズムを思い出すことの価値は、実は凄く大きいのかもしれません。思うよりも、ずっと。

 

 

もう、葵祭を忘れないように。季節の現在地に鈍感にならないように。

うん、時間ができたら、久しぶりに京都に行こうかな。

歩いて、歩いて、歩き回って。古都に吹く風と、草花の色と、寺社の空気を感じるうちに、自分を、この世界の季節の流れの一部に戻してみよう。

 

 

季節の中で、深呼吸。