ジンジャー・エールの生姜率

勢いで始めてしまったブログ。旅行や小説や音楽を語るともっぱらの噂。

音を楽しめと言うけれど

正直、そんなに楽しむべきなんだろうか。

 

 

私は学生時代に吹奏楽部という部活に所属していたが、しばしば「音を楽しもう!」というセリフと出会うことがあった。

(そもそも音楽の「楽」は「楽しい」と別の語源なんだよな…)というツッコミはともかくとして。初めて聞いたときは言い得て妙だな、と思った、気がする。

その頃は、まだ音楽に希望を持っていた。何せ毎日必ず出来ることが増えていく。色んな曲が演奏できるようになる。様々なジャンルの音楽に出会い知的好奇心がくすぐられる。

 

その楽しさをきっかけに走り続けていたら、先輩からの過剰な指導や、顎関節症と中耳炎や、後輩を指導しきれなかった負い目や、まともに吹けなくなるスランプや、「音を聴くだけで吐き気をもよおす」という症状を経験した。

 

もちろん、この間には楽しいことが山のようにあった。というか、上の経験は高校〜大学の6年間で降りかかった負のイベントのダイジェストだ。楽しいことが無ければ6年も続かない。修行僧でもない限り。

 

だけど、「音楽は楽しい」という呪縛に囚われている人が、今現在いるとしたら。

立ち止まれとは言わないけれど、そうでもないことだってある、と頭の片隅にでも置いていてほしい。

 

楽しさの絶頂にいた頃、例えばコンクールが嫌でたまらないという同期のことが、正直理解できていなかった。

自分も過剰な点数至上主義は嫌いだけれど、技術を高め、評価してもらって、金賞を目指すのは刺激的で、また健全な目標じゃないか、と思っていた。

100%真面目な奏者では無かったが、それでも毎日、楽しさを損なわないレベルで体力の限界まで練習していた。勉強もこなしながら。

 

そんな日々にいる自分が嘘だとは言わない。

だけど、きっとそれは呪縛の中にいる自分という面でしかない。

 

大学時代には、一日中吹奏楽曲を聴き漁っていた時期があった。

アンサンブルの譜読みとか、ソロの練習とか、一つの音のタンギングロングトーンで1時間練習したりとか、毎日音楽漬けだった。

ある種、この時点で病的だったのかもしれない。

 

最上級生になって、責任が増した頃。

音を聴くだけで気持ち悪くなったとき、いや正確には「自分の担当楽器だけ、音を聴くだけで気持ち悪くなった」だが、二度と復活できないだろうと思っていた。

その後周囲の協力もあり、無事にスランプは脱せた訳だが。あの年はとにかく辛かった。引退してからは、二度と本気の吹奏楽はできないと思った。

 

もし、あのときスランプを経験していなかったら。今どんな生活を送っているのだろう。

 

 

あれから数年経って、私は相変わらず社会人の吹奏楽団体に所属している。

ほどほどに上手くて、ほどほどに熱心で、ほどほどに練習がある団体だ。

その団体に入る前、コンクールで全国大会に行くような団体を見学したことがある。実力は頑張ればついていけなくはないな、とも思った。練習はややキツイかな、という程度だった。

もしかしたら、順当に「音楽=楽しい」が続いていれば、一も二もなくこちらを選んでいたかもしれない。

 

少し遡って。

大学の吹奏楽を引退してから、渋谷系という音楽ジャンルを知った。ジャズのピアノトリオにハマったりもした。軽音の友達に誘われて、バンドのようなこともした。色々広げていったら、インドネシアや東欧や、民俗音楽なんかに行きついたりもした。

そこには何も強制力が無かった。演奏はしないし、自分のペースで聴いていけばいいし、好きな曲だけ聴いて、共感できなければ一旦スルーすればいい。たまに戻ってきて、良さを噛み締めてもいい。

何より、音楽を聴かない日があっても、別にいい。

 

「音楽=音が苦にならないように」という文章も、学生時代よく目にした。

音が苦になるくらいなら。距離を置けばいいんだな、と今なら思う。

 

体を痛める義務なんかないし、心を痛める義務なんか、もっと、ない。

1日とか2日おいて、また音楽に触れたくなったら触れればいい。

1日休んだら3日分の衰え、なんていうけれど。嫌々やる3日より、モチベーションが高い1日の方がずっと練習の効率がいい。経験上の話だ。

 

 

音楽を必ずしも楽しもうと思わなくなってから、不思議だが、表現の幅が広がってきた気がする。

歳をとったからと言われればそうかもしれないけれど。ちょっとずつ、俯瞰して音楽を見れる事が増えてきたような。

 

 

今は、自分のペースで音楽と付き合えている。

どの視点から見てもいい。どの場所で聴いてもいい。1日触れずに、別の趣味をしてもいい。

それが、最高に穏やかで、最高に楽しい。